厚み派と実利派?(後編)
厚み派と実利派という棋風の分類に異議を申し立てるエントリーの後編です。
最も僕が親近感を感じる棋風の本因坊秀和は、巷間囁かれるような「実利派」とは違う。それを説明するためにはもう一人の棋士の話をする必要がありますから、早速ご登場願いましょう。彼の名は安井知得仙知と言います。本因坊丈和の先代は元丈ですが、その元丈の生涯の好敵手でした。元丈がいわゆる「厚み」を背景に攻撃的な碁を打つのに対して、知得は極端な実利・アマシの碁を打ちます。この知得、おそらく僕が最も影響を受けた棋士です。
なら海原はやっぱり実利派だろう、という声がまた聞こえてきそうですが、僕はそもそも厚み派と実利派の区分自体に反対なので無視して話を進めます。さてこの知得ですが、単に実利派・シノギ派と言って済ませられる棋風ではなく、「実利をしっかりと稼ぎ、相手に自分の石を攻めさせないでそのまま勝ちきる」打ち回しを得意としています。「自分の石を攻めさせない」ことがなぜ可能かと言えば、知得は極端に「固い」打ち方をして、弱い石をせいぜい一個しか作らないからなのです。極端に「固い」とは、例えば二間に開いた石からさらに二間、場合によっては一間に開くようなことを序盤でするという意味です。これなら確かに弱い石はそうそうできません。こうした知得の打ち回しを依田九段は「手厚い」と評しています。元丈の外回り的な厚さとは違った、堅実さと言うか手厚さである、と。
この「手厚さ」に僕は大きく影響されたわけですが、それはともかくこの「手厚さ」という概念を導入してみると、従来の厚み派と実利派の区分がはなはだ不十分であることがお分かりいただけると思います。知得は確かに外回り的な厚みを好みはしませんが、かといって相手に攻められるような「足早に実利をとる碁」も好まない。彼をうまく分類できないのです。そして本因坊秀和も知得ほど極端ではありませんが、「手厚さ」を好む棋士です。確かに実利を先にとりますが、かといってシノギに大童するような碁形にはせず、やんわりと攻撃をかわしてヨセでしっかりと勝つ碁を得意とします。よく秀和が「堅塁」と評されるのはこのためです。
なぜ、この「手厚さ」という要素が棋風の分類に反映されないのでしょうか。これは、碁における「攻め」と「シノギ」という区分が極めておかしなことになっているからです。趙25世本因坊の『シノギの真髄』という本がありますが、この前書きでこんなことが言われています。いわく、スポーツは守り=シノギに回ることがあっても勝つためには攻めによりポイントをあげなくてはいけないが、碁はシノギだけでも勝てる不思議なゲームである。しかし、常識的に考えて攻めずに勝てるゲームが存在するわけがなく、つまり囲碁でいう「攻め」はスポーツの攻めとはちょっと違っていると考えるべきです。囲碁の「ポイント」とは地。攻めがポイントをあげる行為と考えるならば、いわゆる実利派の序盤から実利を得る行為はまさしく「攻め」と言えます。もちろん、相手の石をとる行為や、とるぞとるぞと脅かしながら地を作っていくのも「攻め」にあたる。一方「シノギ」とは、相手にポイントを与えないようにする行為ですから、囲碁で言えば模様への打ち込み・荒らしであったり
、相手を低位に閉じ込めたりすることが含まれます。
つまり、囲碁における攻めとシノギは、ゲームポイントである地ではなく、石を対象とした概念であるから、スポーツの攻めやシノギとは違った意味になっており、それゆえに趙25世の話のような不思議なことになってしまうのです。当然こんな不思議なことになってしまうのですから、攻めとシノギの概念は不完全なものです。そして厚み派と実利派は、囲碁で言うところの攻めとシノギのどちらを好むか、という区分ですから、厚み派と実利派の分類が不完全になるのは自明の理でしょう。
そこで僕が提案したいのは、従来の石を基準とした「攻め・シノギ」の分類をやめて、地を基準とした攻め・シノギの分類に切り替えることです。地を作る行為を攻め、相手に地を作らせない行為をシノギと考えてみる。簡単なことです。しかしこの簡単なことがされていなかった理由もありまして、それは、碁における着手はこうした意味での攻めとシノギの両方の意味を持ってしまうからです。たとえば自分が地をとること=攻めをすれば、その分だけ相手が地を作る場所が無くなるから、シノギとしての意味も持つ。また、大模様に打ち込み二眼で生きるのは、相手の模様が地になるのを防いだという意味ではシノギですが、二眼を持ったことで自分の地を増やしており、攻めと見ることもできる。明確に区分が出来ないのです。しかしだからと言って僕の提案する分類が駄目と言う話ではなく、要は碁は元々が攻めとシノギを明確に分類できないということなのです。したがって、棋風も当然に明確に分類できるわけがない。大事なのは、攻めとシノギの両面が含まれる中で、どちらの要素
が強いかということなのです。自分の確定地を持つことは、相手が地に作る場所を減らすというシノギの面もあるでしょうが、まずは自分の地を増やす攻めの意味が強いでしょう。要は濃度の問題なのです。
こう考えれば「手厚さ」の正体も見えてきます。知得も秀和も、僕の分類で言えば攻めの棋風ですが、彼らは自分の地を作りつつ、自分の石が弱くならないように気を付け、相手の「外回り的な厚み」が働かないようにもしていきます。その意味でシノギの要素も強い。つまり手厚さとは、「シノギの濃度がかなり強い攻め」であると言えます。当然この打ち方は、自分の石も弱くはならないので、いざ接近戦が始まったときにも力強く戦えます。僕が近いのは、地もとりつつ力強く戦えるこの「手厚さ」だったようです。張棋聖の碁は「序盤で攻めまくり、中盤以降でシノギまくる」と言えますから、僕には合わなかった。
さて結局、棋風とは僕の分類する攻めとシノギの濃度の問題ということになりましたが、さすがにこれでは棋風の分類にならないので、おおよそ4つに棋風を分類してみようと思います。まずは、「攻めてから後にシノギ」。張棋風や趙25世ですね。かつての「実利派」は大体これに入ります。次に「シノギも重視した攻め」。言わずと知れた秀和や知得、現代なら依田九段や羽根九段でしょうか。三つ目は「攻めも重視したシノギ」。自分は外回りに石を持ってきて相手には地を与えますが、自分もそれなりに地を気にして打つ。これは山下名人でしょう。最後に「シノギ後に攻め」。これがかつての厚み派・模様派で、武宮九段や高尾九段になります。
以上が、僕の考える新しい棋風の分類です。なお、これとは違った位相で、「複雑な形を好むか単純な形を好むか」という分類もありますが、これは特に言うことも無いでしょう。
棋風というのはなかなかに難しいものですが、1つ新しい視点を提示できたのではないかと思います。感想などありましたらよろしくお願いいたします。