文化の条件〜その参.そして何者にもなれない人々〜
前回までで、いかにして多くの人々をそのジャンルに惹きつけお金を回収していくかという方法論について、激動の明治囲碁界を生きた2人の大棋士の生きざまを中心に語りました。なるべく多くの人からお金を採れるようシステムを構築するか、あるいはそもそもお金を突き放すことで逆説的に多くの人々の関心を集めるか、2つがあるということでした。これは現代においても基本的には同じで、ただかつてよりも大衆の力が強くなっていますから、そうした意味ではより一般大衆を意識した生存戦略が必要にはなるわけです。
問題は、こうした先人達が集金システムを作ってくれたからこそプロが生活できまたそうしたプロ達の存在や芸によってファンが楽しめる、という状況を、当たり前に思ってしまっている人間が非常に多い、ということなのです。これは僕の所属する囲碁界もそうですが、今回の文楽助成金を巡っての橋下市長へのネット上のバッシングを見る限りは、文楽界にも同じ病理があるように見えました。詳しくは話しませんが、他の文化や芸術分野についてもそうした病理があることは個人的に感じることもあります。そしてそうした文化は、軒並み経済的危機に瀕しています。
この状況に対して、その業界のプロはそうでもないのですが、ファンには大衆の無教養を嘆くばかりの人がかなり存在します。そして、これはhttp://togetter.com/li/263907のコメント欄でも書かれているように、かえって「こんなファンがいるジャンルに金出したくない・税金使ってほしくない」という気持ちをファン以外には植え付けます。このように、ジャンルを衰退させるのは、興味を持たない一般人ではありません。自分達のジャンルには価値があるから存続するのは当たり前とばかりに既存のシステムに居直り続け、外部との繋がりを忘れたプロやファンこそが衰退させるのです。 僕からすれば彼らは、自分達が本因坊秀栄のように芸に全てを捧げているかのように振舞いながら、その実、本因坊甫が作った既得権益にはどっぷりと漬かっている、単なる勘違い、何者でもありません。彼らに出来ることは、先人の作ったシステムを食いつぶしながら、一般大衆を呪うことだけなのです。